■前史
先ずは戦前においてバス交通が完成し、山口市営バスが発足するまでの過程です。
山口市を初めて「乗合バス」が走ったのは明治38年(1905年)、小郡-山口間での試運転でした。
その後、大正8年(1919年)1月、内務省より自動車取締り令が出され、大正11年(1922年)に小郡の秋本源蔵氏が「椹野自動車商会」を設立。
同年暮れに小郡-山口間で正式に運転が開始されます。
「椹野自動車商会」は4年後、山口の豊田正一郎氏が引き継ぎ、間もなく中野貞蔵氏が「山口定期自動車株式会社」(以下「山口定期」)を創立しました。
その後の昭和10年頃には、山陽本線から隔絶された山口市では「県庁移転問題」が巻き起こり、それに対応するためか同年頃から山口定期の市営化の
機運が高まります(※2)。
しかし市との買収交渉は金額面で折り合いが合わず、このときは破談となりました(提案額140,000円)(※2)。
しかし大東亜(太平洋)戦争中の昭和17年(1942年)、戦時経済統制が強化される中で乗合事業者の統合が企画され、買収交渉が再開。
国策では、山口県内のバス事業は「省営バス」(後の国鉄バス)か「防長バス」に統合する方針が提示されたようですが、山口定期の株主総会では、僅か
1票差で山口市に事業譲渡することを決定。
同年7月、山口定期は正式に譲渡を承諾します(譲渡金額172,000円)(※2)。
そして昭和17年8月5日、緊急市議会は「自動車運輸事業に関する件」を可決。
県知事に陳情書を提出すると同時に、広島鉄道局、及び鉄道省に市議が市営化の経緯説明に向かい、当時の自動車局長:佐藤栄作氏の助力により、
特例として市営が認められることとなりました(※2※5)。
こうして山口市営バスは発足しています。
(当時の組織名称は「山口市運輸水道部」で、水道事業に併設される形で「市営自動車運輸事業」が存在。昭和19年に「運輸水道部」は「水道課」と
「運輸課」に分離改組)。
最初の拠点は前頁の「山口市八幡馬場」で、職員数45、小型車21台で運行を開始(フォード2、シボレー12、トヨタ・日産各3、霊柩車1)(※2)。
ただ、まもなくして激化する大戦と、戦後の混乱のなかで経営難に陥り、省営バスに路線(秋芳洞線)等を売却し、全7台となってしまったことも
あるようです。
八幡馬場の事務所自体も、発足約2年後には米軍の進駐により中河原に移転しており、順風満帆の船出とはいかなかったようです。
■戦後〜1960年 (以下※1)
1949年(昭和24年)6月 平川線開始
1950年(昭和25年)2月 山口・宇部両市営バス相互乗り入れ開始
10月 長距離貸切観光の募集実施 (県下初)
12月 厚狭線開始
1951年(昭和26年)7月 湯田車庫落成、美濃ヶ浜海水浴場に施設開設
1952年(昭和27年)6月 旧買収引継ぎ財産を一般会計に移管、宇部線開始
7月 吉敷線、朝倉線開始、美濃ヶ浜海水浴場に施設完備
10月 山口市公営企業局発足(運輸・水道事業を統合)、
天花線開始
1955年(昭和30年)8月 一貫野線開始
9月 美濃ヶ浜の施設が台風で流失
1956年(昭和31年)12月 湯田事務所焼失
1957年(昭和32年)3月 小郡営業所新築
8月 秋穂線開始
1958年(昭和33年)2月 秋穂線増強、奥畑線、平川循環線、厚狭線廃止
3月 事務所新築
1959年(昭和34年)10月 公営企業局廃止、山口市交通局発足
11月 山口営業所新築
1960年(昭和35年)3月 整備工場新築
6月 美濃ヶ浜線、由良線開始
戦後、山口市役所も火災で焼失していますので、昭和20年から
昭和23年頃の資料が乏しく、実態が掴みにくくなっています。
そうした中でも路線は拡充し、遠く宇部・厚狭方面にまで営業範囲を伸ばして
いますので、当時の旺盛な路線需要が偲ばれます。
車両が増え、中河原も手狭になったためか、昭和26年には未だ原野の地域が
多かった、湯田温泉郊外の葵地区に車庫を移転。
平成7年まで使用されることになります。
一方で、昭和30年には美濃ヶ浜の車庫が、新築から僅か3年で流失。
翌年には、事務所が火災で焼失するなど、この頃は時代相応の災難が
多くが記録されています。
2004/5/9 2020/5/5
■1960年代〜1970年
1961年(昭和36年)10月 小郡蔵敷線開始
1963年(昭和38年)3月 庁舎増築
10月 早間田〜折本9号線、荒高〜矢田262号新道化
札ノ辻〜米屋町角運行廃止、市内循環線開始
1964年(昭和39年)4月 山口営業所廃止、小郡山手バイパス線開始
1965年(昭和40年)3月 経営審議会条例化
7月 賛井線、蔵敷線廃止
12月 運賃改定
1966年(昭和41年)1月 第1回経営審議会答申
4月 平川循環廃止、大歳駅・平野線に
6月 宮野熊坂線開始、整理券方式導入
1967年(昭和42年)3月 ワンマン対応バス運行開始(小郡線急行と市内循環に)
財政再建申請
4月 財政再建計画承認
1968年(昭和43年)3月 宇部線、本由良〜阿知須線廃止
6月 平川行きが湯田跨線橋経由に
1969年(昭和44年)1月 第2回経営審議会答申
2月 運賃改定
1970年(昭和45年)4月 秋吉洞線、市内定期観光廃止
5月 美濃ヶ浜、仁光寺、奥畑、大歳、市内循環、
幸の橋原条廃止
機構縮小及び配転:3課16係→2課6係へ
■1970年代〜1980年
1972年(昭和47年)4月 朝倉線茶臼山経由を警察署前経由へ変更
5月
運賃改定
1973年(昭和48年)7月 経営健全化促進法制定
1974年(昭和49年)1月 運賃改定、経営健全化計画実施(1978年度まで)
10月 市内定期観光復活
1975年(昭和50年)1月 運賃改定
3月 山陽新幹線下関開業により小郡駅新幹線口に停留所設置
8月
自動両替機付き運賃箱、完全ワンマンバス導入
1976年(昭和51年)1月 運賃改定
3月 生活路線維持費補助
1978年(昭和53年)1月 運賃改定
2月 第3回経営審議会答申
4月 「文化バス」開始
1980年(昭和55年)1月 運賃改定
3月
市内定期観光がKDDへ路線延長
4月 パークロード経由新設、日・祝日ダイヤ制定、循環路線復活
8月
宇部空港連絡路線開設
10月 福祉優待乗車証発行、鰐石橋経由平川線開始
11月 経営診断
続く10年間には、経営改善計画や補助事業が次々と実行に移された
ほか、運賃改定がほぼ毎年行われています。
オイルショック、物価上昇、人件費上昇、そしてモータリゼーションの本格化
が、急激に経営基盤を危うくしていきました。
一方、不良債務は昭和40年(1965年)に初めて1億円を超えて以降、
毎年1億円前後を推移していましたが、山陽新幹線の博多開業や、
人員の合理化、経営改善の成果等を受けてか、昭和52年、53年は、
一旦は黒字にまで回復。
それもつかの間、昭和54年以降は再び赤字となり、80年代は慢性的に
赤字基調となっていきます。
昭和55年度末における乗合乗客数は400万人、車両数は63台、
職員数は141名でした。
■1980年代〜90年
1981年(昭和56年)4月 福祉優待乗車証交付年齢を引き下げ、76→73歳に
1982年(昭和57年)1月 運賃改定
4月 福祉優待乗車証交付年齢をさらに引き下げ、73歳→70歳に
5月 第4回経営審議会答申
1983年(昭和58年)5月 バイパス経由小郡、宇部空港線開始
吉敷中尾、台ノ木、一貫野、熊坂、天花、由良線廃止
1984年(昭和59年)2月 運賃改定
1985年(昭和60年)4月 車両法定点検を外注化
5月 競技場循環路線開始
1986年(昭和61年)3月 宇部空港線廃止
4月 嘱託職員制度採用
7月 大内経由仁保の262号国道経由を廃止、朝倉線廃止
11月 経営改善実施計画策定
1987年(昭和62年)3月 勧奨退職者28名
4月 給料12%カット、定期昇給給与改定(4年間凍結)
2課6係を1課4係へ改組
11月 泉町・元町経由を廃止
1988年(昭和63年)6月 運賃改定、片道定期券、回数券23・25券片発売
11月 稲葉団地経由県庁、競技場・児童センター経由県庁線開始
日・祝仕業区分化
1989年(平成元年)4月 運賃に消費税を転嫁
1990年(平成2年)4月 南総合センター停留所設置
7月 経営改善実施計画検討委員会設置、デジタル運賃表示機導入
1980年代の経営状況は、さらに悪化の一途を辿ります。
昭和58年の宇部空港線の開始は、唯一の積極的経営拡大策と
言えますが、同時に、中尾線などの古参路線を多数失いました。
昭和60年には国の「行政改革大綱」が示され、「山口行革懇談会」では
初めて「民間バス会社に経営譲渡すべき」との議論も行われたようですが、
最終的には労組の「改善実施計画」を受け入れて決着しています。
これを基に翌年からは希望退職を募ったり、組織を改編するなどして、
さらに経営規模を縮小させることになりました。
昭和61年には単年度収支としては過去最大の赤字11億6,000万円を
記録。不良債務は急激に増加し30億円を越えてしまいました。
結果論にはなってしまいますが、このあたりの時期に抜本的な経営改善策を
打ち出せなかったことが、交通局破綻の大きな要因になっているような気が
してしまいます。
平成元年における乗合乗客数は200万人、職員数は52名、車両数は
46台となっています。
■1990年代〜終焉
1991年(平成3年)6月 経営改善実施計画検討委員会市長報告
11月 経営改善実施計画策定
1992年(平成4年)4月 県交通センター、潮寿荘入口停留所設置
1993年(平成5年)3月 運賃改定(市内均一料金を廃止し対キロ区間制に)
1994年(平成6年)2月 車庫移転地造成工事開始
8月 臨時運転手採用
1995年(平成7年)3月 新局舎竣工・移転
4月 新局舎業務開始、ダイヤ・系統変更
八方原経由小郡行き開始、
鰐石橋経由平川、交通センター廃止、音声合成装置導入
1996年(平成8年)6月 翌年3月にかけ、車両10台に補助ステップを取付
1997年(平成9年)5月 運賃に改正消費税を転嫁
1998年(平成10年)3月 第5回経営審議会答申、潮寿荘に乗り入れ
10月 交通問題対策協議会が市長に報告書提出
12月 設置等に関する条例等を廃止する条例可決
事業廃止申請
1999年(平成11年)3月 同許可
山口市営最後の10年間は、決して空虚に過ごした訳ではなく、迫りくる破局に
対して出来得る限りの抵抗をした痕跡が見られます。
平成5年には最後の運賃改定を行い、平成7年にはやはり最後の新設路線となった
「八方原経由小郡駅」行きが開始されます。
また、平成10年には、高齢者への便宜を図って「潮寿荘」にも直接に乗り入れる
ようになりました。
この間に交通局は宮野地区へ移転したほか、路線車両はモノコックの旧式車が
全て淘汰され、一部の高床車には可動式のステップが取り付けられています。
なお、平成7年新設の「八方原経由小郡駅」行きは、同路線への他社の参入を
(当初は)認めず、運輸局の規定に違反してフライング運行まで敢行しています。
一方、湯田車庫から宮野車庫への移転劇は、市内一等地の土地売却益で
不良債務の解消を企図したものでしたが、結局跡地の理想的な売却は叶わず、
隣にあった県立の自動車学校が移転した形で終わりました。
債務も殆ど圧縮されることなく「最後のカード」を切ってしまった山口市営には、
解散・民営化以外に残された選択肢はいよいよ無くなってしまったのです。
そうして平成10年12月、事業廃止の申請を提出。
翌年3月、山口市営交通局は終焉を迎えました。
平成11年の職員数は17人、車両台数は34、不良債務は約16億円とされています。
こちらでは、市営バスの発足から終焉までの概略を見ていきます。
2019年5月現在、wikipedia日本語版の「山口市交通局」項にも簡単な沿革の記載がありますので、
弊サイトではそれを一段掘り下げ、簡単な考察・解説も加えました。
■参考文献■(前頁と同様)
『創業20周年』山口市交通局,1963.3(以下「※1」と表記)
『30年のあゆみ』
山口市交通局,1973.3(以下「※2」と表記)
『山口市営バスの概要』 山口市交通局,1995.4(以下「※3」と表記)
『山口市営バス56年のあゆみ』
山口市交通局,1999.3(以下「※4」と表記)
『55年のあゆみ-赤バスと過ごした日々-』 山口交通労働組合,1999.3(以下「※5」と表記)
ほか、個人回想等
1953年ころのバス車両です。
塗装も後の時代とは大きく異なって
『山口県の百年-県民百年史-』
小川国治著
山川出版社,1983 より引用
この時期の前半は、これまでと同様に路線を拡大しています。
昭和38年(1963年)には国道9号線、同262号線の全通、湯田温泉駅横の立体
交差完成によって、僅かに路線に変化が生じました。
そして、同年開催された山口国体の影響で、乗合乗客(年間900万人)、車両数
(88台)、職員数(319名)は、何れもピークに達しています。
まさにバスの黄金時代だったといえるでしょう。
ところが、こうした状態は意外と長くは続かず、自家用車の普及など社会の急速な
変化と競争の激化、営業規模拡大の反動などにより、4年後の昭和42年(1967年)
には、早くも財政再建を申請。
同時に、合理化の一環として「ワンマンバス」も小郡線を端緒として部分的に運行を
始めるようになりました。
以降は昭和45年頃にかけて宇部、阿知須、秋芳洞や、市内の盲腸路線等を次々と
廃止するようになり、組織も縮小されてしまいます。
昭和45年(1970年)の乗合乗客は年間700万人、車両数は減(62台)、職員数は
急減(173名)となっており、7年間の「合理化」の痛みが見て取れます。
船団を組んで阿知須海水浴場へ
向かう、バスの黄金時代を象徴する
写真です。
中古車も多くが在籍。
『あじすの記憶-阿知須町制施行65周年記念誌-』
山口県阿知須町,2005 より引用
宇部空港線の開始に伴って導入された、リムジンバスの1台です
(※ご提供写真)。
専用車を投入したものの、同線は僅か3年で廃止され、本車も他の
用途に転用されてしまいました。
なお、山口市内中心部〜宇部空港間の路線の試行錯誤は、各事業社
によって平成末期まで続けられましたが、何れも成果は乏しく
開始・廃止を繰り返す結果となっており、もともと難しい性格の
路線環境であることに変わりはないようです。
交通局の移転前後に10台の高級新車が導入され、モノコック、
非冷房の旧型車を全廃します。
一部の車には出入口にステップも取り付けられ、最後までサービス
向上が試みられました(※ご提供写真)。
なお、その後の山口営業所では、全国的な車両寿命の延命化傾向
を受け新型車の投入速度が鈍化したため、これら市営末期の車両
たちは、何れも20年以上(最長26年)も現役を続けることに
なりました。
1960年代後半から70年前後にかけて大量導入された
ワンマン運転対応車です(※2)。
山口市営では昭和41年(1966年)の導入車から、ワンマン
運転を推進し、段階を経て、昭和60年(1985年)に完全
ワンマン化を達成(車掌乗務の車を全廃)しています。
交通局、そしてその歴史編は以上になります。
十分な顕彰や検証がなされていない「山口市交通局」の存在については、少しでも存在感を持たせたい
思いで執筆をしております。
いつの日か、こうした歴史資料や現在の山口市の交通政策、多数の文献等を基に「山口市交通局」という存在を
郷土史や経済史の視点から多角的に論じてみたいと考えておりますが、なかなか十分な時間が取れずに実現には
至っておりません。
今はただ、こうして「趣味」の範囲に留めておきたいと思います。