要の整備工場
大型扉を備える整備工場は、まるで「航空機の格納庫」の
ようだったといわれています。
車両の品質が安定しない時代の整備は過酷を極めながらも、
多数の職員が最後まで安全運行を支え続けました。
東側には講堂や組合事務所も備えています。
なお、末期には内側にV字型に折れた屋根の形状から雨水が
侵入し、盛大に雨漏りがあったほか、巨大な入口扉の
吊りレール付近はハトの恰好の営巣場になっていた、
などの逸話も伝わります。
山口市営バス(山口市交通局、通称「赤バス」)は、昭和18年(1943年)に発足し、平成11年(1999年)に解散した公営企業です。
戦前戦後を通して山口市の交通行政の中心に位置づけられ、経済、社会、文化の発展に大きく貢献しましたが、交通環境の変化や
行財政改革の要請を受け、その役目を終えました。
解散に伴い、車両、路線、人員の一部は山口県内の大手バス会社である防長交通株式会社(本社:周南市)に引き継がれています。
(※旧交通局庁舎施設は、現在も山口市が所有)
ここでは、かつて山口市に存在した「山口市営バス」に関する概要を見ていきます。
●更新情報:2019/9/1 字句を一部修正
嗚呼、交通局
■壮絶な外観
平成4年(1992年)頃、幼い頃の私が見ていた当時の交通局湯田庁舎は、外壁が激しく汚れ、雨樋などが朽ちて脱落し、窓サッシは
錆色で、補修のトタン板は風に揺れ、地面からは容赦なく苔が蔓延る、といった壮絶な外観を呈していました。
秋季には台風が過ぎ去る度に被害が大きくなっていくようであり、敷地の片隅には廃車両が大量に集められてその躯を晒すという、素人目に
見ても凋落した印象は拭い難いものがありました。
こうした状況は、今から思えば、平成7年(1995年)に予定された宮野地区への移転の為に、意図的に建物の補修を最小限にしていた
結果なのかも知れません。
しかしこの「光景」とその「印象」は、末期の市営バスの芳しくない経営状況を象徴していたかのような思いがして参ります。
■かつての栄光
ところが、弊サイトを開設してからしばらく経った頃、こちらをご覧の方から1冊の本をご紹介いただきました。
それは山口市交通局自身が、解散に際して発行した回顧録的な文献(※1)で、そこには予想外の事実と写真が、多数掲載されていたのです。
そこに写る、かつての交通局庁舎、車両、そして若々しい職員の方々の笑顔は、如何に美しく輝いていたことか。
交通局という組織が、如何に誇りとプライドをかけて業務にあたり、そして山口市の行政史に輝かしい実績を残してきたことか。
私が寂しい気持ちで眺めていたあの末期の「交通局」とは、かつて小郡町との連絡を要するという宿命を克服するために生まれ、
長期に亘って山口市の交通、経済、文化の発展を支え続けた、栄光の拠点だったのです。
■そして後世へ
この余りにも大きな変貌ぶり、或いはギャップに驚きつつも、こうした事実を次々と識るに及び、交通局の実像に迫る資料や回想録は、
まだまだ世の中には少なく、公営交通の正当な評価、結論付けには至っていないのではないか、という問題意識を持ちました。
そのため、このページは、本ページを車両のページと併せて、交通局の歴史をいち趣味人の視点からまとめ、実像に迫るれるよう作成
したものです。
多くの方々の考察の一助となれば幸いです。
なお、私個人は直接の当事者ではございませんので、詳細や経緯については事実と異なる場合もあろうかと思います。
何卒ご了承願います(よりお詳しい方のご意見、ご指摘等をお待ち致しております)。
■参考文献■
『創業20周年』山口市交通局,1963.3(以下「※1」と表記)
『30年のあゆみ』
山口市交通局,1973.3(以下「※2」と表記)
『山口市営バスの概要』 山口市交通局,1995.4(以下「※3」と表記)
『山口市営バス56年のあゆみ』
山口市交通局,1999.3(以下「※4」と表記)
『55年のあゆみ-赤バスと過ごした日々-』 山口交通労働組合,1999.3(以下「※5」と表記) ほか、個人回想等
先ずは、固定資産である庁舎の変遷をご紹介します。
「山口市営バス」は、昭和18年(1943年)の発足当初は「山口市運輸水道部」として八幡馬場に事務所を
構えましたが、昭和20年(1945年)には中河原(現:「一ノ坂川交通交流広場」付近)に移転しています。
こうした草創期の様子を、少ない資料を基に一部推察を交えてみていきましょう。
各写真をご覧になってもお分かりの通り、平成初期の施設の様子は、相当に老朽化が進んでいました。
最盛期には一度に100台近くのバスが集った栄光の跡地は、現在、多くの若手ドライバーを育てています。
■起死回生の車庫移転、宮野庁舎
度重なる経営改革も奏功せず、約20億円の負債と、毎年約5億円の補助金が投入され続けた
交通局の存在意義自体も議論されるなかで計画された荒療治が、車庫の移転という決断でした。
不動産価格が高騰していた時期(所謂「バブル期」)に検討されたと思われ、湯田温泉の
一等地の売却益を以て負債を解消しようとした奇策ではありましたが、実際に売却決定された
時期にはバブルが崩壊しており、債務返済には大きく寄与することなく終わってしまいました。
こうして平成7年(1995年)に約6億円(※3)の建設費を投じて移転・完成した新庁舎は、
車両数が減ったためか、湯田時代に比べて施設規模がかなり縮小されています。
それでも大きな検修工場や、車両前後まで洗浄する自動洗車機など新しい試みは垣間見え、
一列の車庫に一斉に「赤バス」が並ぶ姿は、とても壮観ではありました。
また、宮野地区に戻ってきたこと自体は、創業の地「八幡馬場」にも近いことから、原点回帰と
言えるのかも知れません。
しかしその後は経営再建の努力も虚しく、宮野時代は僅か4年でその役割を終え、防長交通社の
「山口営業所」となります。
写真は建設中の平成6年と、市営解散直後の平成12年(2001年)のものです。
建築当初から現在まで、施設に特に大きな変更箇所は見当たりません。
なお、現存する現役の施設であり、現在も山口市が保有する公共施設でもあるため、保安上の
理由から、詳細の公開は控えさせていただきます。
■支所の車庫施設
平成年間の山口市営では、全てにおいて湯田車庫(後に宮野車庫)が機能の中心にありました。
しかし歴史的に見れば、秋穂地区と仁保地区、小郡地区といった路線の末端には小規模ながら
車庫施設を有していたようで、壮大な路線、膨大な車両数を誇っていた時代の一端がうかがえます。
以下はその図面です。
・
仁保車庫図面 (何度か遷移したもののうちの一つと思われます)
※図面を写真撮影していますので、不鮮明はな点ご了承ください。
また、これらとは別に、終点付近では粗末な小屋(台の木線)や、契約した民家の一室(一貫野線)、
通称「連れ込み旅館」などにも宿泊する運用(厚狭線)があったといわれています。
当時の道路状況は現代とは比較困難な程に悪く、仮に現:山口市内だったとしても、路線末端までの
バスの運行には、2名ともが極めて激しい疲労を伴ったためと思われます。
左の写真は、秋穂車庫の跡地を平成20年夏に撮影したものです。
次に、代表的な時期における市営バスの路線図を見ていきます。
草創期から最盛期、そして衰退期へと進む過程で、路線図は如実にその時代を反映していると言えるでしょう。
宮野に車庫が移転して以降の路線は防長交通に継承された現在でもあまり変化が無く、ほぼそのまま現存して
いるのが興味深い点です。
※路線図はすべて 『55年のあゆみ-赤バスと過ごした日々-』
山口交通労働組合,1999.3 より引用しています。
■発足当初:1943年(昭和18年)
当初から市内の中心市街地は路線が充実していました。
完成された「山口定期自動車」の営業基盤をそのまま引き継いだものと考えられます。
平川、秋穂あたりは未だ開拓されていなかった(住宅や道がごく少なかった?)こともわかります。
■最盛期:1961年3月(昭和36年)
バスによる交通の最盛期を迎え、市内外に遠大な路線を持つようになります。
国道の完成によって一部幹線はそちらに移行しましたが、未だ旧道系統も多くが残っていました。
宇部駅や秋芳洞まで伸びる路線にも注目。
昭和33年(1958年)までは、厚狭方面にも路線を伸ばしていたようですが、仁光寺線の開通と
秋穂線の増強に入れ替わる形で廃止されています。
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■衰退期:1973年3月(昭和48年)
上記から10年ちょっとで、大幅に路線は整理・合理化されてきました。
昭和58年(1983年)にはバイパス線(現・国道9号線)と宇部空港線が開始、同時に吉敷中尾、
一貫野、熊坂、由良、錦鶏の滝(天花)、台の木線が一斉に廃止されます。
しかし、せっかく開業した宇部空港線は僅か3年で廃止に。
昭和61年(1986年)には朝倉線、大内の国道経由が廃止されており、この状態こそが、私が利用
していた頃でした。
■末期:1999年3月(平成11年)
市営バス最後の路線図となったもので、基本的に現在の防長交通社の路線と変わりはありません。
平成7年(1995年)には最後の新設路線として平川から小郡に続く路線(八方原経由小郡駅行き)が
誕生し、これが割と好評だったそうです。
平成9年(1997年)には秋穂の「潮寿荘」にも乗り入れを果たし、サービス向上に尽力しました。
以上が私の持っている路線図情報の全てです。
当時の路線図や時刻表をお持ちの方がいらっしゃれば、是非とも拝見させていただければ嬉しく思います(2009年3月)。
次のページでは、歴史年表についてみていきます。
事務所棟の内部
昭和34年に新築された事務所は、1階が総務、食堂、風呂、2階が局長室や
会議室、3階が女子宿泊室(長距離貸切運行に備えたもの)で、
増築部分は
1階が運転手詰所、2階が配車室、倉庫だったといいます。
なお、増築前は、2階のサンルームのような張り出し部分が配車室だったようで、
飛行場の管制塔のように、出入りする車を逐一把握・管理していたようです。
旧事務所棟の位置
昭和26年から昭和31年までの5年間、ここには事務所棟
がありましたが、火災事故によって焼失してしまいました。
当直の職員の方が重傷を負いながらも、車両を車庫から
避難させたという話が伝わります。
その後、事務所の新築位置はやや南側に移され、さらに
その後、東側部分が増築されます。
歴史を刻んだ車庫上屋
この車庫は2階建て構造に
なっており、南側には若い
職員の詰所があったため、
深夜でも騒いでいたと
いわれています
(後に構体ごと撤去)。
また、車庫の骨組み自体は、
下松の軍需工場の再利用品
であったようで、米軍機に
よる機銃掃射の弾痕が
残っていたようです。
■湯田時代
中川原の市場に移転した後の記録は、残念ながら殆ど残されていません。
断片的に伝わる様子では、「御茶屋橋」を中心とした一帯の路上にバスは無造作に駐車されており、事務所としては木造平屋の
民家風の家屋が使われていたようです。
その後の需要急増に応じた増車で結局手狭になったためか、昭和26年(1951年)には湯田温泉葵に本拠地に移転しており、翌
昭和27年に「山口市公営企業局」、昭和34年には漸く「山口市交通局」へと組織改編を経ています(※4)。
この昭和26年からの「湯田時代」は、平成7年(1995年)に宮野地区に移転するまでの間、実に
44年も続きました。
昭和31年(1956年)には事務所棟が全焼するという「事故」にも見舞われますが、昭和35年(1960年)には、西日本最大規模を誇る
巨大な整備工場も完成し、安全運行を支え続けます(※4)。
後述の宮野地区へ交通局が移転した後は全施設が解体され、現在は自動車学校の敷地となりました。
■施設配置
それでは、最長の所在記録を持った湯田庁舎時代の「末期」の状態であり、私の写真記録も残る平成4年頃の様子をみて参ります。
湯田庁舎は当初、事務所を囲む「中央車庫」付近を中心に建設されたのち、西側に敷地の拡大を続け、整備工場が落成する前後には、
ほぼ最終的な配置となりました(※各写真はクリックで拡大します。私の記憶を基に作成しており、名称は私が付けたもので縮尺も
適当です)。
■八幡馬場
左の写真は、文献「※2」、及び「※5」に「事務所」として掲載された、
当時の本庁舎と思われる建物の様子です。
具体的な位置は、この写真だけでは分かりかねますが、奥の石垣や鎮守の杜
と思われる樹々の様子から判断すると、現存する「今八幡宮」神社境内のすぐ
東側付近ではなかったかと思われます。
下左の写真は、山口市営の前身である「山口定期自動車」の社員が仮装行事を
行った際のもの(※2)であるようですが、撮影地はやはり「今八幡宮」の入口
階段前と思われ、庁舎所在地との関連性を濃厚に感じさせられるものとなって
います。
こうしたことから、市営事業は「山口定期自動車」の時代から車両、人員だけで
なく、固定資産もそのまま承継したと考えることが出来るでしょう。
「市営バス第1号車」として
掲載される写真(※2)の場所も、
背景に写る建物の特徴から、本庁舎
前であることが分かります。
背景の灯篭群、階段、石垣の様子から、
「今八幡宮」である
と推測。
現在も当時とほぼ
同じ形態で残ります。
このように八幡馬場地区は、市営化以前から近代交通の拠点として機能していたようですが、
恐らく当時の優良顧客の一つであり、本庁舎の近隣に衛戍していた陸軍歩兵第42連隊が戦後
解散し、同地に米軍が進駐することになって(※2)、運命が変わりました。
即ち、豊富な輸送機材を持つ米軍にとって、基地前を煙を吐いて往来する複数の低速の木炭バスは、
「障害物」でしかなかったのかも知れません。
進駐から間もない昭和20年(1945年)10月には、組織全体を中川原の公設市場内に移転することに
なり(指示か自主判断かは不明)、復興のなかで大量輸送時代を迎えていきます。